ずっともやもやしてたこと 

 マイナーだった頃からずっと好きだったバンドが有名になって、周りの人がいいよね!って言い出すようになってちょっと違和感持つ様な感覚がある。そのバンドが好きってことが自分のアイデンティティだったのに、みんなのものになっちゃったことで、自分も流行に乗る1人に成り下がっちゃった、みたいな感覚。私の中で”起業”もそんな感じだった。

 

 両親が起業していて、伯父さんも起業していて、伯母さんも起業していて…雇用者は周りにほとんどいなくて、サラリーマンとかOL、パートの人たちを直接知らずにいた。父が代表を務める会社名には、ファーストネームが入っていたので、継ごう!という感覚は全くなかった。中学校に入って、将来何がしたいか?という問いにぶつかることが多くなった。私はいつも経営者、と答えていた。(私にとっての経営者のイメージは、大企業に入って上りつめて経営陣に、というものではなくて、起業して自営していきたい、というもの。)同級生に将来経営をしたい、という人は少なかったから、”将来、経営をしたい”というのがひとつの、私と他人を差別化するアイデンティティのようなものだった。

 

 それが、広島から東京に出てくると起業ブーム。学生起業家、社会起業、起業家講座、起業家に学ぶ○○術、ベンチャー起業、インキュベーター…何なんだこれ、って感じだった。アイデンティティなんてなくなって、”起業したい!”が陳腐な言葉に置き換わった..
 

 


起業=ベンチャーな東京

 


 大学に入って「将来起業したい」という言葉の捉えられ方が変わった気がする。広島で「起業したい」っていうと変わってるなーみたいなイメージをぼんやりと持たれた。東京に入って「起業したい」と言うと、ああ君もブームに乗ってるのね、いいと思うよ起業(笑)みたいなことを言われることも多々あった。

 

 「そういうのじゃないんだよ、ずっと自営してる親を見てきたの!ベンチャーでもソーシャルでもなくて単に独立したいの。起業の泥臭い部分も知ってるし。」って言いたいけど、なるほどね、ブーム前からやる気はあった訳ね、って返されてからは、特に反論しないようにした。バズワードに乗っかってるビックマウスな女の子として、自分が他人に認識されてると思うとなんかすんごく嫌だった。



 あくまでも起業したいというのは、個人の意思であって頭がいいからとか行動力があるからとかいうことを、理由として考えることには違和感がある。起業したいかしたくないか、それが重要。起業家講演に行ったり、「Aクラスの人はAクラスの人と付き合う。Bクラスの人はCクラスを雇う。」みたいな言葉を聞いたり、大企業倒産のニュースを聞いたり…そんなことをしているうちに、「起業家は偉い」みたいな考え方に一瞬納得しそうになったこともあったけど、ちょっと考えてやっぱり違うなと思った。正しいとか正しくないとか、その選択が賢いかとかそんなことではなくて、幼い頃から見てきた両親の働きを見て小さな憧れを持ったのだから、理由はそれでいいじゃんかって思った。



 ソーシャル、ソーシャル、ソーシャル!!

 

「これからの時代はやりたいことやるために起業するんじゃだめ、社会問題の解決のために起業する社会起業家じゃないと」って言われた。たとえば、貧困問題なら貧困問題、それにフォーカスすることで人が繋がる。すばらしいことだと単純に感じた。どこかの環境問題を解決したいと思ってる、貿易関係の会社とITの会社が結びついて…ってリンクしてくのはすばらしいこと。でも私にはこれ解決したい!って思える社会問題がない。(そういうことに目を向けられないこと自体小さな社会問題なのかもしれないけど。)年金問題とかキャリア教育の不足とか、就活のやり方についてだとか、これあんまりよくはないなと思える問題は無いことは無い。でもそれを私が解決しようとは思えない。

 

私が東京にきて会った高校生で、「将来、社会起業家になりたいです。でもいまはまだどの社会問題にフォーカスするかわからないので、まずは大学入って社会問題を勉強したいです。」と言う子がいた。私にはそれが、「正義のヒーローになりたいけど、いままだ悪役が見つかってない。ちょっとあら探ししてくる」みたいに聞こえた。自分でも、なんで私こんなに卑屈なんだ、って思った。でも、これが私の考え方だ。

 

ライフスタイルとしての起業→自営をやりたいのに、どうしてとってつけたように社会問題の解決を目指さないといけないのか。本当にやりたい気持ちとか思い入れがないと、社会問題なんて本当の意味では解決できない。だから、(いずれ社会起業家になる可能性がない訳でも、社会起業家を否定する訳でもないが、)社会起業家を目指すという行為に対して、違和感しか感じない。